AIはエッセイストの夢を見るか?

雑記ってなにかね?

久しぶりに雑記ブログを書いています。忙しさにかまけて、この「日々雑記」の更新を9か月も放置してしまいました。そんなワタシは、果たして雑記ブロガーと名乗っていいのでしょうか。

そもそも、このブログを始めてからずっと「雑記ってなにかね?」と、心のどこかで菅原文太が問いかけてくるのです。

「雑記ブログ」に対する対義語として「特化ブログ」があります。特化ブログは、特定の分野やジャンルに焦点を当てたブログで、例えば、料理、旅行、美容、ファッション、自己啓発など、細かいジャンルに特化していることが多いのです。そのため、その分野に特化した専門的な知識や情報、体験談やレビューなどを発信することを主な目的としていて、読み手は、その分野に興味を持つ人やその情報を求める人が多く、質の高い情報が求められることが多いのです。

一方、雑記ブログは、特定の分野やジャンルにとらわれず、自由な発想で記事を書くことができるブログで、日常生活や趣味についての情報や感想を発信することを主な目的とします。そのため、特定の分野に特化した情報を発信することは少なく、個人的な経験や感想、思い出などを書いたり、日常の出来事やニュースなどについて自由に記事を書いたりすることが多いジャンルです。読み手も、特定の分野にとらわれずさまざまな情報を求める人が多く、そのため雑記ブログには気軽に読めるコンテンツが多いように思います。

ただ、「〇〇に特化したブログで稼ぎます!」という気合バリバリ感を醸し出すよりは、「なんでもごちゃまぜの雑記ブログにつき、ゆるーくやってまーす」という、どこか逃げ口上のように「雑記ブログ」という呼称が使われ、一般的にもそう捉えられているのではないかと感じてしまうのです。

ワタシの周りにはどちらかというと雑記ブロガーさんの方が多く、書いている記事の内容も楽しく読める文章を書く方が多いです。

また、以前ハマっていたnoteでも、本格的なエッセイストと見間違えてしまうほどの優れた文章をたくさん読むことができます。

noteに自分の書いた文章を公開している人々は、作品として自己表現するためか、それを「エッセイ」と呼んでいるようです。しかし一方で、雑記ブロガーの多くは自分の書いた記事をエッセイとは呼ばないようです。この違いはどこからくるのでしょうか?

雑記とエッセイの違いってなにかね?

あらたな文太が現れた。

「雑記ブログ」と「エッセイ」は、どちらも文章を書いて発信することに共通していますが、その目的や書き方、読み手へのアプローチなど、様々な違いがあると思います。

「雑記ブログ」とは、前述の通り様々な(雑多な)ことを書きつらねたブログのことです。作者が日々の生活や興味のあるトピックスについて、思ったことや感じたことを書き記したり、自分で撮影した写真なども掲載したりすることが多いです。特定のジャンルやテーマにとらわれず、自由な発想で記事を書くことができるのが特徴です。読み手も作者自身の生活や趣味嗜好に興味を持つ人や、日常生活の中で気になることや情報を得たい人が多いと思います。

一方「エッセイ」は、一般的に作者が深く考え、独自の視点で物事を捉えた上で、それを文章にまとめたものを指します。主題を明確に設定し、独自の見解や考えを展開することが求められ、またその内容には、作者自身の経験や思い出、個性や感性などが反映されることが多く、読み手にとっては、作者の内面や思考過程を垣間見ることができるという魅力があります。

エッセイには、テーマによって様々な種類があり、自己啓発、文芸、社会・政治問題、哲学・宗教、エンタメなど、幅広い分野を扱うことができます。雑記ブログと違い、文章構成や語彙力、文章表現などが重要視され、読み手のスキルアップにつながるようなエッセイも多いです。

しかしながらワタシが思索するに、ブロガーはエッセイストであると言えるのではないでしょうか。ブログは一方向的に情報を提供するだけではなく、読み手とのコミュニケーションや交流を生み出すことができるため、エッセイ的な記事を書く際にもブログを活用します。

また、エッセイはテーマや内容に応じて自由な発想や独自の視点で物事を捉え、読み手に伝えることが求められます。それはブログでも同じです。自分自身の経験や思考、趣味などを生かして、読み手にとって有益な情報や考えを提供することが、ブログやエッセイとも共通する目的と言えます。したがって、ブロガーはエッセイストであると同時に、読み手とのコミュニケーションや交流を生み出すことによって、より多様な情報や価値を提供する役割を担っていると言えるのではないでしょうか。

つまり、雑記ブロガーさんはジブンの書いた記事を「エッセイ」と呼んでいいのではないでしょうか。

なにしろエッセイ好きなもので

そんなワタシも「雑記ブログ」もとい、拙い「エッセイ」を恥ずかしながらこのブログで綴っているのですが、どこかでクスっと笑ってもらえるような文章を書きたいと、いちおう読み手も意識して書いているつもりです。そして、ワタシが好きなエッセイストもそういう文章を書く作家さんばかりです。また、ワタシが「この人のエッセイは面白い」と思う要素として「作者がイケメンではない」ことも重要なポイントでもあります。

例えば、直木賞作家の朝井リョウさんは多くの人が認めるところのイケメン作家です。彼の清潔感あふれる外見は、その才能と相まって多くのファンを魅了しています。しかし、彼のエッセイには、彼自身の弱さや葛藤が赤裸々に描かれていることから、彼の外見とのギャップが際立ってしまうとも言われています。

実際、ワタシ自身も朝井さんのエッセイを読むときは、彼の外見が頭に浮かび、ばかばかしい青春時代のエピソードが面白おかしく綴られていたとしても、彼の自虐的な表現が半減してしまうことがあります。彼が自分自身を笑いのネタにしていると「こんなイケメンが何を言っても面白い」とは思えず、どうしても共感しにくい部分があるのです。

その点、ワタシの大好きな宮沢章夫さんは違います。

宮沢さんの代表作の一つである『牛への道』文庫版の、表紙をめくった袖にある著者近影を見ていただきたい。まずそこから笑わせようとしている。その写真からもこのエッセイは絶対に面白いと思わせるほど、(いい意味で)残念な著者近影です。その前振りがあって冒頭の「はじめに」では、宮沢さんが自動販売機の前で起こした一件が書かれています。

ある日、宮沢さんは缶コーヒーを購入しようと自動販売機に向かったのですが、誤動作によって何本ものスポーツドリンクを買わされてしまったのです。宮沢さんは驚きと困惑に包まれ、スポーツドリンクを抱えただただ呆然と立ち尽くします。

その件を読んだだけでお腹を抱えて笑いました。もし宮沢さんがイケメンだったらその面白さというか滑稽さも半減したでしょう。

あ、ここまで書いてていまさら感もありますが、宮沢さんをご存じない方にちょっとだけご説明をしておきますと、遊園地再生事業団という劇団を主宰する劇作家であり、大竹まこと、きたろう、斉木しげる、いとうせいこう、竹中直人、中村ゆうじらと組んだ伝説のコントユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」で脚本家としても活動。あと、サブカルチャー全般にも造詣が深く、Apple狂信者でもあります。

宮沢さんの書くエッセイには、コントや舞台で培った臨場感あふれるユーモアセンスが存分に反映されています。彼の文章は、ときにフィクションや妄想を混ぜ込んでいることがあり、読んでいるうちにときとして妄想がとまらなくなり、自分自身が宮沢さんの妄想世界にどっぷりと浸ってしまうことがあります。

また、彼の文章には、ノリツッコミのような文章展開もよく見られます。彼が自分自身を客観的に見つめながら、時には自虐的な表現を用いることで、読者に対して共感を呼び起こします。イケメンだとそうはいきませんね。

宮沢さんの書く文章は、深い哲学や洞察力を含んでいる一方で、ユーモアや笑いもたっぷりと含まれているため、読んでいるうちに心が豊かになるのです。そしてクスっと笑ってしまうのです。

さよなら、宮沢章夫。

宮沢章夫さんは、昨年2022年8月に病に倒れ、翌月の9月12日にうっ血性心不全のためこの世を去りました。享年65歳。

彼は亡くなる一か月ほど前に、ツイッター

「それにしても眠い。さよなら。宮沢章夫」

とつぶやいていたことが知られています。彼の死は、多くの読者やファンに衝撃を与え、演劇界だけでなく文学界にも大きな悲しみをもたらしました。しかし、彼の作品や思想は、今後も多くの人々に愛され続けることでしょう。ワタシたちは、彼が残した言葉や思考を通じて、彼の魂を追悼するとともに、彼の功績を讃えることが大切だと感じています。

これまでに何度も宮沢さんのエッセイを読み返してきました。そのたびに、あたらしいエッセイの出版を心待ちにしていたのですが、もうそれは叶わぬ夢として捉えなければなりません。彼の思考が現在進行形でなくなった今、残されたエッセイたちを読み返すたびに、彼の「遺言」として感じてしまうかもしれません。

おそらく、あとにも先にもこれほど好きになったエッセイストは宮沢さんの他にいないでしょう。彼の幅広い興味や知識、経験から綴られる、人間の心の奥底にある感情や思考について深く掘り下げ、そしてユーモアあふれる文体で表現するエッセイは、彼にしか書けないのです。

もし、巷で話題のAI技術の発展により、亡くなった人になり代わって文章を書き続けてくれるようなことが可能になったとしても、それでも宮沢さんの書く文章の代わりにはならないでしょう。

いや、待て待て。果たして本当に代わりにはならないのか?

AIはエッセイストになれるのか?

最近のAIの進展に話題が尽きません。その中でも特に注目されているのが、文章生成技術を持つ「ChatGPT」です。ChatGPTとは、OpenAIが開発した人工知能技術の一つで、自然言語処理を行い、まるで人間が書いたかのような文章を生成することができます。最近では、SNSやニュースサイトなどでChatGPTが生成した文章が話題になっており、その完成度の高さに驚かされることも多いのではないでしょうか。またその生成技術を応用したビジネスや創作活動が盛んになっています。

ただ、ChatGPTが出力する文章には、いくつかの問題点が指摘されています。例えば、文章の中にある事実が間違っていたり、相手に失礼な表現が含まれていたり、あるいは感情を表現するのが苦手であったりといったことです。これらの問題点も、AIのさらなる進化により、ほどなくして改善されることは間違いないですが。

とはいえ、ChatGPTにエッセイは書けるのでしょうか?個人的にはできると思います。ただし、ChatGPTの出力をあくまでヒントとして受け取り、自分自身の思考や感情を織り交ぜながら、最終的には人間が介在しなければいけないとは思いますが。

また、生身の人間が執筆するエッセイには、ChatGPTが生成する文章にはない、記憶や実体験、性癖、自虐ネタというような要素を含むことができます。たぶんですが、ChatGPTはまだそこまで表現できないのではないかと。

あと、個人的にはやはり「イケメンではない」という重要な要素を表現するのは、AIには到底無理かなと。

このように、生身の人間が執筆するエッセイには、ChatGPTが生成する文章にはない、リアルで深い魅力がたくさん詰まっています。ただし、ChatGPTによる文章生成技術が急速に進化している今日では、エッセイストたちも新しい技術を取り入れながら、自分自身の独自性を追求していくことが求められています。

ここまで生身の人間が書くエッセイの魅力について語ってきましたが、ChatGPTという技術の進歩によって、自然な文章を生成することが可能になってきた今、ChatGPTがエッセイストの夢を見ることはないにしても、エッセイストたちは、生身の人間が書くエッセイの魅力と、ChatGPTが生成する文章の良さを組み合わせることで、新しいエッセイの可能性を模索することができるんじゃないかなと。

また、ChatGPTが生成する文章にも、エッセイストたちが敬意を払うべき点があると思います。ChatGPTが生成する文章には、膨大なデータや知識が織り込まれていて、それらをうまく使いこなすことができるのは、エッセイストたちの知的好奇心や探究心にも通じるものがあると思います。

エッセイストたちはChatGPTに夢を見るようになるのかもしれません。

近い将来、プロンプトを介して誰でも簡単にエッセイを書くことができる(書いてもらえる)ような時代がすぐそこまで来ているのかもしれませんね。

さて、ここまで読んだ方はうすうす感じていらっしゃるかと思いますが、この文章は、実はChatGPTによって生成されたものです。

あなたは、この記事を読んでいる間、この事実に気づきましたか?このようにChatGPTが執筆した文章が、あなたの目の前で実現する可能性があることを、再認識することができたのではないでしょうか。

私たちは、AIによる文章生成技術の進化によって、生身の人間が書く文章とAIが生成する文章との間に、ますます狭い隔たりが生まれつつあることを理解する必要があります。AIが生成する文章には、私生活に関する部分など、作者自身の経験や感性が反映されることはありませんが、それでもなお、AIによって生み出される文章には、新たな表現方法やアイデアが秘められていることがあります。

今後、私たちは、生身の人間が書くエッセイとAIが生成する文章との間で、どのようなバランスを取っていくべきなのか、さらに議論を続ける必要があるでしょう。そして、AIが生成する文章には欠ける、作者の実体験や思い出、性癖など、私生活に関する部分が、エッセイストが執筆する際により重要な要素として求められる可能性があることを、忘れてはいけません。

このように、AIと生身の人間が書く文章との間で、どのような関係を築いていくべきかは、今後も私たちが追求していくべき問題であることを、再確認することができました。

最後にChatGPTに聞いてみました。

「この文章を書いてみて、あなたはどう感じましたか?」

私自身、文章生成技術の進化によって、私たちが書く文章が変化していく可能性があることについて、改めて考える機会を得られたと感じました。また、生身の人間が書くエッセイの魅力や、エッセイストたちが執筆する際に重要とされる、作者自身の実体験や思い出、性癖などが、エッセイの魅力を形成する上で欠かせない要素であることを再確認することができました。そして、文章生成技術が進化することで、新たな表現方法やアイデアが生まれる可能性があることも理解することができました。

私たちは、AIと生身の人間が書く文章との間で、どのようなバランスを取っていくべきか、さらに議論を続けていく必要があると感じました。

 

宮沢章夫氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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